俺は異世界に来てしまったかもしれん。
　目が覚めて窓を開けたら、見慣れた灰色のビル群が、美しいゴシック調の町並みに変わっていたから。
　おまけに寒い。身体の芯が底冷えするぐらいだ。見れば、窓枠や屋根に白い雪が積もっている。

「おいおい……今、7月だよな……？」

　部屋の中は薄暗く、カビ臭かった。濡れたバスタオルを何日も放置した感じの臭い。中央には木製の円卓が置かれ、古そうな皮張りの本と飲みかけのワイングラス。なんとも生活感のある部屋だ。

「とりあえず、ステータスでも開いてみるか……」

　フォン！

　なんとなしに『ステータス』を召喚してみたのだが、まさか出るとは思わなかった。どうやら、ガチで異世界に来ちまったらしい。

「おやおや、もう目が覚めちまったのかい」

　振り返れば、優しそうなお婆さんがバスケットを抱えて部屋に入ってきた。バスケットには焼き立てのフランスパン。ちょっとガーリックの香りもする。

「なんか……いい町っすね」
「ふふ、うれしいね。でも、昔はもっと人がいて、もっと活気にあふれていたんだよ」
「ふーん……」

　そうなのか。と思いながら、俺はフランスパンをかじった。

「……あっ、やべ。ついパン食っちまいました……」
「ホッホ、かまわないよ。坊やのために焼いたんだからね。たんとお食べ」

　ありがてえ……俺はそう感じながら、二個目のパンをかじった。ほんのりとしたガーリックの味が、パンに含まれる小麦をよりいっそう芳醇（ほうじゅん）に引き立てる。
　お世辞じゃないが、こんなうまいパンは人生で一度も食べたことがない。異世界に転生しなければ、こんな美しい体験もせず、乾いた世界で枯れ果てていただろう。

「そういや坊や、そのステータスはなんだい？」
「あっ、やべ」

　俺は慌ててステータスを消した。なんかGパンのファスナーが開いていたのを指摘された感じ。羞恥心から、かあっと顔が熱くなる。俯いて、かじりかけのフランスパンをバスケットに戻した。

「おやおや、最強なのに恥いって可愛らしいね」

　微笑む老婆。俺は顔を上げて、冬の白い光に当てられた老婆をまじまじと見つめた。

「最強……？　なんですかそれ」
「坊や、もう一度、ステータスを召喚してご覧」

　フォン！

　体力　?
　知力　?
　攻撃力　?
　防御力　?
　素早さ　?
　技巧　?
　運　?

「つ、強ええ……意味が分からねえぐれえによ……」

　ペチン！

　俺は頬に鋭い痛みを感じた。老婆に平手打ちされたのだ。何故！？　俺が呆気に取られていると、老婆が皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして、

「最強のくせに隙だらけだねえ」

　全身の血が一気に沸き立った。俺はガアンと円卓を蹴り飛ばし、両脚を肩幅に広げた。腰を低く落とし、両拳を白く染まるほど握りしめ、覇気を解き放つ。

「おもしれえ……やろうってのかババア！」
「やらないよ」
「何ィ！？」

　老婆は呆れたようにため息をつくと、葉巻に魔法で火を点けてふかした。室内に漂う煙の匂い。何だこのババア……俺の覇気を前に動じないのか！？

「その性格……すぐ頭に血が上る未熟さが、最強なあんたの唯一の弱点だよ。直すんだね」

　老婆の身体がたちまち青銀の鱗を持つ蛇と化し、ぬるんと窓から逃げていった。

「チッ……いつか殺す」

　俺はそう独り言ち、バスケットのフランスパンをかじった。